27歳で緊急脱出!仕事が嫌なので0円でセミリタイア!!

2020年6月に5年続けた仕事が嫌になり資産がロクにないまま勢いで辞めた人間の末路をお楽しみください

人はいつ偉くなってしまうのだろう【僕が自由に書く本気記事7】

どうもポテトです。

僕はセミリタイア者だ。

社会的には偉くない人に分類されるだろう。

社会的信用は皆無といっていい。

僕を信用してくれるのは数少ない友人と家族くらいのものだろう。

 

だか、それでいい。と僕は思う

偉くなる必要などない。

なぜなら人は偉くなると途端に傲慢になり、人を恫喝し、侮蔑し、悪辣な人間へと変貌を遂げるからだ。

そう言ってしまうと、世の偉い人から総反撃に合い、僕はボロボロにされてしまいそうであるので、ここで一つ釈明を入れるとするならば、人によると言っておこう。

 

ショッピングモールで働いていると度々、親が子供を激しく叱りつける様を見かける。

その度に僕は思う。

この人はいつ、人を恫喝するほどに偉くなったのだろうと。

相手が子供という弱者だからだろうか。

周囲が自分と干渉しない赤の他人だからだろうか。

 

人は自由である時にこそ、その本質が露呈する。

おそらく今子供を恫喝している親も、学校のクラスの中や会社のオフィスでは、もっと穏便に立ち振る舞っていたのではないだろうか。

もう一度言おう。

人は自由である時にこそ、その本質が露呈する。

 

であれば、自由を体現するセミリタイア者はつねに本質が露呈しっぱなしということだ。

つまりは露出狂の変態である。

 

セミリタイアをしながらも、何事も問題を起こさずに、穏やかに暮らす僕のような人間こそが、最も上質で煌びやかな本質を持っているということだろう。そうに違いない。全く俺って良いやつだぜ……。

 

この話にはもう一つ重大な問題点を孕んでいる

人を恫喝する者というのはすなわち、人の上に立ち、人に何かを教える立場なのである。

人に何かを教えるというのは聞こえがいいが、僕はそうなりたくないと思っている。

なぜなら楽しくないからだ。

僕は人生では、つねにプレイヤー側でありたいと思っている。

人が歳をとるにつれ、人生に飽き、子供のころのような青春を思い描けなくなるのは、ひとえにプレイヤーでなくなってしまうからだと、僕は思うのです。

新しいことをしなくなり、今持っているものが自分の唯一の価値だと思い込み、人へ教える側に立つ。

それはすなわち新たな世界の拒否であり、怠惰なる現状維持に他ならないのである。

もしかしたら恫喝する人は、そんな自分の虚しさを子供にぶつけているのかもしれないと思うと、あまりに悲惨で涙が落ちる。

 

自分が経験したこと、学んだことを、他者を救うことに使うのはとても良いことだ。

しかし同時に自身もまた常に教わる側であることを拒否してはならない。

拒否した時点でその者は傲慢で醜い豚に成り下がる。

ブヒブヒと人を恫喝する暇があるのなら、心のデトックスを行い、僕のような素晴らしい人間になるべきだろう。

 

人が偉くなるのは親になった時だけではない。

会社の上司もまた偉くなったが故の被害者と言えるだろう。

彼らは会社という、極めて狭い檻の中で、猿山の大将役をやらされているがゆえに、つねにボス猿のような立ち振る舞いを求められているのだ。

あまりに気弱なリーダーの姿も見せてしまうと、若い部下に舐められてしまうと常に怯えているのだ。

その怯えから解放されるために日々、部下に恫喝しているのだと思うと、また僕の涙は落ちるばかりだ。

 

――なんて悲しい世の中だ。

人はなぜこうもフラットな人間関係が作れないのだろうか。

それはひとえにセミリタイアしていないからだろう。

社会に所属し、役割を与えられた時点で、その人間は縛られストレスを溜め、人を恫喝するようになる。

そして恫喝された者も、その闇を抱え、自身が偉くなった時は今度は自分が恫喝してやろうと、無意識に決心するのだ。

これが恫喝の終わらない輪廻の始まりだ。

この残酷な輪廻から解き放たれるには――セミリタイアしかないのである。

セミリタイアをし、自由になり、全ての役割から解放された時にこそ、自身の本質と真に向き合えるのだ。

そしてその時に何事も問題を起こさず、優雅に暮らすことで自身の本質の正しさを証明するのだ。

 

さぁ今こそ自分の本質と向き合おう。

そのためにはセミリタイアだ。

 

君たちの本質が真に煌びやかであることを願うとしよう。

エル・プサイ・コングルゥゥ……。(シュタゲ風)

 

終わりに

ショッピングモールで働いていると、いろんな人をよく見ます。

他者を見ることで、自分との違いに気づき、自分をチューニングするきっかけになるのだと思います。

であればセミリタイアした後も、そのチューニングは欠かさずに行うべきでしょうね。

でないと僕はいつの間にか、世界が進み、浦島太郎状態の原始人野郎になってしまう。

そういう意味ではこのブログもまた、僕のチューニングのための一つなのでしょう。

読者のコメントを見て、僕がチューニングをする。

僕の記事を見て、読者がチューニングをする。

そうやってチューニングしあえる関係を持つのも良いのかもしれませんね。(まだコメント一度たりとも来たことがないけど)