どうもポテトです。
無職になって何年たっただろうか。
ブログも300記事を超えた。
まぁ大した記事書いてないけど(笑)
趣味9割、収益1割のブログ。
経済的な話でいえば、続ける意味はない。
でもなぜか続けている。きっとお金以外の魅力を感じているのだろう。
- 多くの人は消費に人生を費やす。
- 暇になると一つの快感が限界を迎える。
- 創造に意味を持たせることができるか
- ブログは表現の場としては最適
- 糞を垂れ流すように記事を書く
- 自分にとってのうんちは何か
- おまけ
多くの人は消費に人生を費やす。
テレビ見る。
音楽を聴く。
ゲームをする。
カフェでお茶をする。
創造ではなく消費に人生の多くの時間を費やす。
きっと多くの人にとって、創造より消費が快感なんだろう。
この快感は人為的に作られたものなんだろうか。
創造する人はお金を稼ぎやすい。
創造したものをお金に変えることができるかもしれないから。
そう考えると実は僕たちは、幼少期から消費の中毒者に育てられたのだろうか。
そんな邪推をしてしまう。
暇になると一つの快感が限界を迎える。
セミリタイアしてみて無限の時間ができると、どうだろうか。
不思議なことに消費に限界を感じるようになる。
昨今は娯楽が毎日無限に大量生産されている。つまり消費する対象は無限にある。
にも関わらず多くの人は無限の快感を求めるのではなく、そのうち自らの人生に疑問を持ってしまう。
無職を引退してまた働きだす人も多い。多くの金持ちがビジネスを続ける。多くの老人が引退してなおバイトを始めるのはそういうことだろう。
創造に意味を持たせることができるか
消費の快感に限界が来た時、人はまた働きだす。
しかしそれは創造の快楽を知らない弊害である。
何を創ればいいかわからないから。創るものの価値を信じれないから。とりあえず仕事という大義名分に人は縋るのだろう。
決して働くことは悪いことではないが、創造の快楽を覚えるのも悪くない。
AIが流行る2024年。AIが人を超え、人が創造する全てのものがAIの下位互換になった時、人は創造し続けることができるだろうか。
人に求められることを創造の意義にしていては続けることはできないだろう。
自らが凡才であると認識しながらも、創造の快楽を得ること。それが肝要だ。
ブログは表現の場としては最適
最近は動画コンテンツが主流ではあるけれど、どうも僕は動画を作るのが苦手だ。
まずあまりにも編集が大変である。
編集するためには動画を見ないといけないわけで、編集した後も自らの編集が正しかったか動画を確認することになる。そんなことを続けていると自分の動画を何回も繰り返し見ることになる。そんな肯定がひどくつまらなく感じてしまう。
それに比べるとブログ記事はまだまだ楽で、趣味でダラダラ創造するには最適だと感じる。まぁ動画も一発撮り編集なしでいけるなら、手間なくやれるのだろうが生憎僕にはそんなトークスキルはなかった。
無加工動画なんて上げると、見ている人が共感性羞恥で顔を赤らめてしまうことが容易に想像できるくらいには不格好なものになってしまう。
糞を垂れ流すように記事を書く
読者を想像せずうんちをまき散らすようにダラダラ書く。
飽きたら書くのを辞めて、また気が向いたらうんちを出す。その繰り返しがこのブログの歴史といってもいい。
うんちは価値を持たない。でもそれでもうんちをするのは、その人にとって必要なものだからだろう。つまりうんちの価値はうんちをする人だけのもので他者に伝わるものではない。
今後も健全に排泄をし続けよう。消費の快楽に偏りすぎないように。仕事だけが唯一の支えにならないように。排泄をしなくなれば人は心が腐るから。
自分にとってのうんちは何か
創るものはなんでもいい。
僕のようにブログ記事でもいいし。簡単なイラストでも、ハンドメイドでも、料理でも、とにかく何か興味のあるものを創ってみよう。
最初はひどく不格好かもしれない。でもいいんだ。やり続ければそのうち愛着が湧くものだ。愛着が湧けば続けられる。続ければ愛着が湧く。その繰り返しが創造の快楽に貴方を誘うことになるだろう。
本当に大事なことは作ったものじゃなくて、その過程にある。
うんちに価値がなくても、排泄の快楽があればいい。
その快楽は自分だけのものだ。自分だけの快楽を持てば、人生はより安泰になるだろう。
おまけ
ここまで読んだ読者に情報をプレゼントです。
どうやらセブンイレブンが10%還元になるらしい。
情報を制すものがお金を制す。
ではまたね🥳